西谷浩一に嫁と子供がいた!大阪桐蔭の監督になった不思議な運命とは?

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西谷浩一監督が大阪桐蔭の指導者になって15年ほどたちますが、どのような経緯で大阪桐蔭の監督になったのでしょうか?調べてみると「不思議」という言える運命に導かれていたことが分かりました。今回は、西谷浩一監督が大阪桐蔭の指導者となったいきさつや暗黒時代を含めた経歴、さらには嫁や子供の情報についてもお伝えします。
 

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西谷浩一監督の経歴

1969年9月12日生まれ

年齢:48歳(2018年の誕生日で49歳になります)

出身地:兵庫県

報徳学園高校・関西大学卒業

 

【指導者としての経歴】

1993年~:大阪桐蔭高校野球部コーチ

1998年11月~:大阪桐蔭高校野球部監督

監督になった当初は「1年」という期限付きの臨時監督だったのですが、2001年まで約3年間監督を務めました。

2002年には前監督の長澤和雄さんが監督を務め、翌年、正式に監督に就任しました。

西谷浩一監督といえば

●高校時代はチームの不祥事で大会にすら出場できない

●大学には一浪して入学

●大学ではキャプテンに就任するも、控え選手だった

というように、選手時代に苦労していたことは有名な話ですが、監督時代も相当苦労しているのです。

 

例えば

●初めて監督になって迎えた大阪府の大会では初戦敗退

●臨時監督時代は甲子園に出場できなかったものの、長澤監督が復帰した2002年に甲子園出場

●2004年春に甲子園出場を決めたものの、かつてのチーム内の不祥事が発覚して辞任する

(このときは、コーチがチームの指揮を執りました。現中日の平田良介2年生だったころです)

●「夏は西谷監督と甲子園へ」と選手たちが意気込んでいたものの、決勝戦で1年生だったマエケン率いるPL学園に敗れる

 

ある意味「誰よりも甲子園に近づいていたのに、誰よりも甲子園から見放されていた監督」だったのです。

西谷監督自身も「どん底の時代」と言っていたほどでした。

ですが、2005年夏にようやく監督として甲子園に出場して以降、毎年のように優勝争いに食い込むようになり、今では「名監督」と呼ばれるようになりました。

 

西谷監督といえば、試合後のインタビューで相手チームをたたえるコメントをすることが多いことでも有名です。

21世紀枠で出場して伊万里高校のことを「お手本のようなチーム」と言い、今夏2回戦で対戦した沖学園のことを「しぶといチーム」だと語っていました。

甲子園に出ることがどれだけ難しいのかを誰よりも理解しているからこそ、相手チームに心から敬意を払うことが出来るのだと思います。

2018年夏に優勝したことで、甲子園通算55勝ですが、この記録をどこまで伸ばすことが出来るのか注目です。
 

西谷浩一監督の嫁&子供の情報

西谷浩一監督の嫁に関する情報ですが、2018年に発売された書籍で、西谷浩一監督自身が

「僕自身は結婚も遅くて子供がまだ小さい」

と語っていました。

ということは、嫁と子供がいることは間違いないでしょう。

とはいえ、どのような方なのかについては現時点では分かっておりません。

大阪桐蔭の関係者だった方なのかもしれませんし、そうではないのかも知れません。

 

もし子供が男の子で、高校進学するにあたり「大阪桐蔭で野球をやりたい」と言ったら西谷監督は受け入れるのでしょうか?

さすがに、「子供だから」という理由だけで入学はさせないでしょう。

子供に合う学校を選んであげそうな気がします。

今後、西谷監督の嫁が取材などを受ける機会がありましたら、どのような方なのか見てみたいです。
 

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大阪桐蔭の監督になった不思議な運命とは?

西谷監督は「報徳学園→関西大学」と進んでいるのが、もともと大阪桐蔭とは縁もゆかりもない人物です。

にもかかわらず、どのようないきさつで大阪桐蔭の監督になったのでしょうか?

それには、先ほど紹介した長澤和雄さんが深くかかわっているのです。

 

この方は、大阪桐蔭が甲子園初出場初優勝を遂げたときの監督で、監督になる前はスポーツ用品メーカーに勤務していました。

出身大学は西谷監督と同じで、関西大学です。

西谷監督が高校3年生の頃、大会に出られないことが決まった後も後輩たちと一緒に練習していた時、たまたま長澤監督が高校の練習を見ていたのです。

そこで、長澤監督が西谷監督に関大受験を勧めたのです。

(勉強を始めたのが9月だったこともあって間に合わず、1年遅れで関大に入学しました)

 

大学3年生の頃は「卒業したら社会人チームで野球をやりたい」と思っていたのですが、大阪桐蔭の監督になっていた長澤監督から「コーチにならないか」と誘われたのです。

それも、1度や2度ではなく、自宅には何度も電話がかかってきたのです。

そこで西谷監督は、自身の選手としての将来性のことを考えるようになり、最終的にコーチ就任の話を引き受けることになったのです。

 

ということは、もし長澤監督がいなければ、というより引退後もグラウンドで練習していなければ「大阪桐蔭:西谷浩一監督」は誕生していなかったでしょう。

長澤監督としても

「将来的には西谷さんに監督をしてもらいたい」

「西谷監督なら、絶対にチームを強くしてくれるはず」

と思っていたのでしょうが、ここまで強くなったことに関しては「予想外」だったかもしれません。

 

2018年夏は決勝戦に残り、2度目の春夏連覇を達成しました。

来年度以降も、どのようなチームを作ってくるのか非常に楽しみです。

最後まで読んで頂き、ありがとうございまいた。
 

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